思考の泡

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Emacs のスペース削除コマンド

Emacs にはテキストやコードをエディットする様々なコマンドが用意されています。意外と知られていないホワイトスペースを削除するコマンドを紹介します。

 

delete-horizontal-space (デフォルトのキーバインドで C-\)はポイント(カーソル)の周りのスペース、タブを削除してくれます。prefix 引数を付けて実行すると(C-u C-\)、ポイントから前のスペースだけを削除します。

 

just-one-space (デフォルトで M-SPC)も似たような動作をしますが、こちらは一つだけスペースを残してくれます。これ意外と便利です。

prefix 引数で数値を指定するとその数だけスペースを残してくれます。例えば C-4 M-SPC とするとスペースを4つ残してくれます。

OS によっては M-SPC (Alt+Space) は別の用途に使われていることがありますが、その場合は ESC Space を使いましょう。

 

上で説明したように C-u C-\ でポイントから前のスペースだけを削除してくれますが、後ろのスペースだけを削除してくれるコマンドはないものかと以前から思っていました。例えばコメントの行頭を揃える場合などにこれがあると便利です。探したけれど見つからないので作ってみました。 キーバインドはお好みで。

        
(defun delete-backword-spaces ()
  "ポイントの後ろのホワイトスペースを削除"
  (interactive)
  (let ((orig-pos (point)))
    (delete-region
     orig-pos
     (progn
       (skip-chars-forward " \t")
       (constrain-to-field nil orig-pos t)
       )
     )))

;;; S-delete にバインド
(global-set-key (kbd "<S-delete>") 'delete-backword-spaces)

北海道三毛別事件

北海道の歴史が好きで、関連の小説や歴史ものをよく読みます。昨年(2015年)ちょっとした偶然から吉村昭氏の「羆嵐」という小説を読みました。これは北海道三毛別(さんけべつ)で実際に起きた羆による獣害事件を扱ったものです。胎児を含め7人が殺され、3人が重症を負った日本史上最悪の羆事件です。

その後どういう訳かこの三毛別事件を取り上げるテレビ番組をよく見かけるようになりました。それも見ようとして見たわけではなく、たまたまテレビをつけると事件の再現ドラマをやっていたりレポーターが事件の地を訪れたりしているのです。不思議なシンクロニシティー感じていたのですが、理由はすぐに分かりました。この事件が起きたのが1915年。つまり事件からちょうど100周年で、それでテレビが盛んに取り上げていたのです。

更に本の雑誌が選ぶ2015年度文庫ベストテンで「慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ事件」という本がベストワンになったりしています。(こちらはまだ読んでいません。)

まさにちょっとした三毛別祭といってもいいような状態です。この三毛別、今は事件で町興し的な観光地になっているらしく、事件を再現したオブジェなどが飾られたりしているようです。まあ機会があれが行ってみたいと思っています。

 

この三毛別事件、恐ろしいのは羆が人間の味を知っていて女性や子供ばかりを好んで襲っていることです。襲われた妊婦が腹の子供を庇おうとし「腹だけは噛まないでくれ」と熊に頼みこむシーンなどが吉村先生の作品には生々しく描かれています。これはかろうじて生き残った人間からの証言によるものなので、小説の創作ではなく史実だと思います。警察の人間は役立たずばかりで、コントみたいな失態を繰り返す中、登場するのが伝説のマタギ。これまたカッコいいのです。

 

それにしても吉村先生、熊と人間の対決話がよっぽどお好きらしく、この作品の他にも、全編熊撃ち話だけを集めた短編集「熊撃ち」があり、更に別の短編集「羆」も表題作が熊撃ちの話です。どれもお勧めです。

 

思い出のイタリアンレストラン

学生時代千葉県柏市に住んでいました。1980年代の話です。

柏駅東口と西口に同じ名前のちょっとしたイタリアンレストランがありました。どちらの店も喫茶店か何かだったところを居抜きで買い取ったらしく、店の作りはまったく統一感がありませんでした。しかしとにかく安くて旨いということでかなり賑っていました。たしかパスタ一皿が500円もしなかったと思います。当時としてもかなり安かった筈です。

貧乏学生にはありがたく、頻繁に利用していました。飲み会の最後の締めはここでパスタを食べるというのがお決まりのパターンになっていました。夜は各テーブルにキャンドルを灯していたような気がします。男数人で薄暗いテーブルを囲んでパスタをつついてた記憶があります。

とにかくすきっ腹を満たしてくれた店として学生時代の思い出に残る筈でした。

 

時代は流れ、それから何10年後、もう柏からも引っ越して別の町に住んでいました。近くに新しい外食レストランの建設工事が始まり、見ていたら看板にあの思い出の店と同じ名前が掲げられているではないですか。しかし垢抜けて小綺麗な店作りや洒落たロゴの看板など、当時の記憶にある店とは似ても似つきません。最初は偶然名前が同じだけで、思い出の店とはまったく別ものではないかと思っていました。

その店が開店し、まあものは試しと思って入ってみました。そしてサラダを一口食べた瞬間、記憶がサーっと蘇えってきました。特徴的なドレッシングが当時のものとまったく一緒なのです。やはりあの店だったのです。

 

その店はその後あれよあれよという間に全国展開し、どこの町でもごく普通に見掛けるようになりました。その店の名前は「サイゼリヤ」といいます。

 

後から知った話ですが、サイゼリヤ東京理科大学の学生が在学中に興した伝説的な起業ストーリーの店だそうです。実は自分も同じ大学出身でして、まさが自分たちの先輩が興した店だとは当時はまったく知らずに通っていました。

それにしても当時のあの薄暗い店がずいぶん成長したものです。

ブラックホールからエネルギーを取り出せるか?

ブラックホールはその強力な重力ゆえに全ての物質を飲み込んでしまいます。光でさえもそこから抜け出せません。

光さえ飲み込んでしまうということで、昔のSF小説などに出てきたブラックホールは目に見えない黒い渦巻みたいで、知らない間に近付いてしまうとても危険な物体として描かれていました。

しかし実際のブラックホールはというと、強烈な電磁波を発して明るく光輝いているのです。

物質がブラックホールに落ち込むときに強烈な運動エネルギーを得ます。運動エネルギーを得た物質同士は激しくぶつかり合い、光や電磁波を発生します。更に電荷を帯びた粒子が磁界の中を移動するとそれだけで電磁波を発生します。

このように周りから物質を吸い込んでいる限りブラックホールは強烈に光輝いているのです。ブラックホールの生成過程を考えるとブラックホールの回りには星の名残りであるガスやチリが大量の漂っていて、かなり長い間ブラックホールは光輝くはずです。

皮肉なことにブラックホール近傍は数十億度もの温度があり、宇宙の中でも最も明るく輝いている領域なのです。

誤解の無いように言っておきますが、既にブラックホールの内部の落ち込んでしまった物質は当然外に向って光を発することはできません。あくまでもブラックホール内部に落ち込む一歩手前のところで断末魔のように物質が光輝いているのです。

ではこの明るく輝くブラックホールをエネルギー源として使えないでしょうか?

原理的には可能だと思います。しかし様々な技術的困難があります。

まず質量が太陽の数十倍もあるような天体規模のブラックホールの場合、太陽系の中に引き込んだだけで、各惑星が影響を受け、公転軌道が滅茶苦茶になってしまいます。

では小さなブラックホール(マイクロ・ブラックホール)ではどうでしょう?ここで問題になるのは、そもそもある程度以下の小さなブラックホールはこの宇宙の存在するかどうかすら分っていないことです。少なくとも既知の物理現象でマイクロ・ブラックホールが生成する過程は知られていません。しかし可能性はあります。唯一マイクロ・ブラックホールが生まれたかもしれない宇宙現象があるのです。

それはビッグバンです。ビッグバンのどさくさ紛れであればマイクロ・ブラックホールが生成されたかもしれず、それが今でもこの宇宙を漂っているかもしれないのです。

 運よくマイクロ・ブラックホールが見つかったとして、それを安全にコントロールできれば、これはエネルギー源として使えるかもしれません。このエネルギー源のすばらしいところは燃料が何でもいいということです。とにかく物質をブラックホールに落とし込みさえすればエネルギーを得られるということです。それもかなりの高効率で。

昔読んだアーサー・C・クラークの小説に、マイクロ・ブラックホールに霧を吹きかけてエネルギーを得るブラックホール・エンジンを搭載した宇宙船が出てきたのを憶えています。しかしこのブラックホール・エンジン、マイクロとはいえブラックホール自体が相当な質量を持っている筈です。この宇宙船を動かすにはその質量を駆動するのに充分なエネルギーを取り出せるかが鍵になります。

 

ミーの思い出

田舎町に育った私の実家は食品を扱う商売をやっていて、よくネズミが出ました。そこで我が家ではネズミを退治するために猫を飼っていました。

私が生まれたとき既にミーという名前の三毛猫がいて、この猫はとても長生きしました。生まれたときから見ているので、ミーがいるのは生活の中でごく自然のことでした。子供にとっていい遊び相手で、自分とミーはごく自然なかたちで一緒に成長していきました。

この猫はよくネズミを獲りました。ネズミを獲るのは猫の本能がそううさせるのでしょうが、獲ったネズミをどうすればいいのかよく分らないらしく、しばらくじゃれた後、困ったような顔をしてそのまま放り出してしまいます。

この猫の後にも何匹か猫を飼いましたが、ネズミなど一切獲らなかったり、家の中に粗相をしたり、ミーの頭のよさを後から思い知らされました。

家族からも可愛いがられ、特にいつも餌をもらう祖父の膝の上でよく昼寝をしていました。

私が10歳くらいの年だと思います。流石にミーも老齢で動きが鈍くなってきました。そのうち立つのもやっとになり、お腹には何か出来物もできていました。裏庭の涼しいところで一日中寝て過すようになっていました。

もう先が長くないだろうということは子供の自分でも理解できましたが、あえてそれを口に出すこともできませんでした。

ある暑い日学校から帰ると母親から「ミーが亡くなったよ」と聞かされました。とても穏やかな顔をして眠っているようで、体は既に固くなり始めていました。

家の中にはミーが障子につけた爪研ぎの跡だけが残っていました。

蛇嫌い、芋虫嫌い

田舎に育った自分は子供の頃よく蛇を見かけました。昭和の時代の話です。

一番良く見かけるのはヤマカガシでした。水田などで水の上をスイスイ渡っているのをよく見掛けたりしました。この蛇は特徴的な赤い模様があり一目で見分けがつきます。子供にとっていい遊び相手で、よく捕まえて振りまわしたりしていました。女の子が怖がるので、ワザと近づてからかったり、結構えげつないこともしていました。

マムシには毒があるから気をつけろとはよく言われましたが、ヤマカガシには毒が無いというのが当時の世間一般の常識でした。

しかしその後の研究でこのヤマカガシ、実は猛毒を持っていることが分ったのです。それもマムシよりも強力な毒です。今では絶対に近づいてはいけない生物です。幸いにも自分は噛まれたことはありませんが、これを知ったとき唖然としてしまいました。一歩間違えば死ぬとこだったじゃねーか!どうしてくれんだよ!

 

よく人は蛇嫌いと蜘蛛嫌いに分れると言われますが、自分はどちらも抵抗がありません。しかし一つだけどうにも苦手なものがあります。芋虫です。あのプニプニした体、無数に蠢く足、そしてありえないボディーカラー。想像しただけで鳥肌が立ってきます。

しかし慣れとは恐ろしいもので、自分の芋虫嫌いにも一つだけ例外があります。実は自分の田舎は養蚕が盛んな所で、近所に養蚕農家がたくさんありました。養蚕小屋に入ると何千匹、いや何万匹のカイコ(つまい白い芋虫)が桑の葉の上で蠢いているのです。本当の芋虫嫌いの人にとっては阿鼻叫喚の地獄絵図です。

でも子供の頃からこの風景を見ている自分はカイコだけは恐怖を感じないのです。不思議なものです。

 

文章の幼児退行化 - いわゆる「用言+です」問題について

「今日はとても楽しかったです。」

 

 小学生の作文によくある文章です。この文章をどう思いますか?違和感を感じる人と感じない人がいるようです。私はやはりどうも稚拙な文章だなという印象を受けます。

 

何がいけないかというと、本来「です」は名詞のように活用しない語(体言)に接続するもので、活用する語(用言)に接続するとこのような座りの悪い文章になってしまうのです。

 

最近はこの「用言+です」が溢れかえっています。

「〜したいです」「〜が多いです」「あぶないですから〜」

何でもかんでもとりあえず「です」を付ければ丁寧語になるという思い込みから「です」の濫用を招いているのです。

 

国語教育もかつてはこの表現を禁止していました。昔は使うと注意されていたようです。では上の文章はどうすればいいかというと「今日はとても楽しゅうございました。」というのが本来の日本語のようです。しかし今時こんな前時代的な言葉を使う人はいません。

有名なマラソン選手の円谷幸吉の遺書は「〜美味しうございました」の羅列になっています。少なくともこの頃までは国語教育が徹底されていたことが伺えます。

 

しかし現在の国語教育では「用言 + です」は積極的には禁止しないという、ゆるく受け入れる方針に変わっていて、今の子供は注意されません。私も注意された記憶はありません。しかし世の中が受け入れる方向に進んでいるとはいえ、やはりこの表現が多様されると文章が稚拙で下品に見えてしまいます。はっきり言ってバカっぽくなります。

 

本多勝一氏の「日本語の作文技術」の中で、この手の表現を「サボリ敬語」と呼んで斬り捨ていています。しかし「サボリ敬語」が氾濫する現状を、最後は諦めのように締めくくっています。

 

昔あるコンピュータ関連の翻訳本を読んだ時、最初から最後までこの表現だらけでうんざりしたことがあります。まあその本の場合、終始ひどい日本語だらけで、オリジナルの内容がいい本だっただけにとても残念な気持になりました。

 

作家やライターのようないわゆる文章のプロはまずこの手の表現は使いません。この表現があれば、まあ文章スキルのない人が書いたなという判断基準にはなります。